「自分」と写真について考える

こんにちは。宇伊兄です。


先月、Twitterでたまたま見つけたプロのフォトグラファーの写真展に訪れました。


写真展の主催者はガチのプロフォトグラファーで趣味の延長線で写真をやっている宇伊兄とは格の違いを見せつけられたのですが、その方がとてもフレンドリーな方で全くの初対面の僕に対して写真について小一時間ほど話をしてくださいました。


その中でいまだに印象に残っているのが、「写真家」と「フォトグラファー」と「カメラマン」の違いと、「写真はどこまでの加工が許容されるのか」といった話です。


「写真家」と「フォトグラファー」と「カメラマン」の違い

個人的見解ですが、僕はこれらの違いは撮る写真の性質の違いだと思っています。「カメラマン」は相手のニーズや要望に忠実に必要があるため、我を通していては仕事になりません。対して、写真家はその対極、つまり我を貫いた写真を撮る人だと思っています。アラーキーの写真なんかはいい典型例で、彼は立派な「写真家」なんだと思います。ここまでは見解がお互い共通でした。

では「フォトグラファー」は一体なんなのか。プロの「フォトグラファー」にどういう心境で写真を撮っているのか聞いてみたところ、「写真家とカメラマンの中間」だと答えてくれました。

要するに我を通すけれども、相手に伝わるような写真を撮るのが「フォトグラファー」なんだと思うのです。

記録のために撮る写真はどこまで行っても「カメラマン」止まりでしょうし、奇をてらいすぎても「写真家」の写真で伝わりにくい。「フォトグラファー」であることは難しいのかもしれません。

それでも自分は今後フォトグラファーを名乗れるように精進したいなと思いました。


写真の加工はどこまで許容されるのか

写真は「実をす」と書くくらいですから、いわゆる「撮って出し」の状態でないと、絵画との区別がつかないのではないかと最初カメラを握ったばかりの宇伊兄は考えていました。しかしながら、カメラやレンズはもちろん心情なんてものを持ちませんから、レンズを通して写し出されたものは真実であるとは言えませんね。心を動かされるほどの夕焼けを写真に残そうとしてがっかりした経験がある人はよくわかると思います。

そう思うようになってからキヤノン純正のDPPやLightroomを使ってRAW現像をするようになりましたが、いまだに自分がよしとしない加工がトリミングなのです。だってナショジオの写真の撮り方みたいな本にトリミングは愚行みたいなこと書いてあったし。

まあ、それこそトリミングは画質を落とすことになるし、何より撮ったときの自分を否定する感じがするんですよね。

しかし、トリミングをすることで余計な部分が削られてより伝えるべきものが伝わりやすくなるのも事実。結構ここ自分の中で葛藤するところなんですよね。皆さんはどう思いますか?もっとも、ここまで写真について深く考えたことがある人がどれだけいるかは甚だ疑問ではありますが…。


とはいえ、かなりガチな写真展を拝見して話を伺うことで自分の中の写真観が変わった感じがしました。独りよがりではいい写真は生まれないんだろうなとも思いました。皆さんも一度写真について深く考えてみてはいかがでしょうか。

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